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塩と胡椒入れのミュージアムとは

胡椒はどこから来るのか ヨーロッパ人は胡椒がどこから来るのかについてほとんど知りませんでした。
ただそれがインドと呼ばれる場所から来ることは知っていました。
インドはどこか東にあることも知っていました。
でも国とその人々についてはほとんど知らず、たどり着くルートに関しても全く無知でした。
当時、胡椒取引の大部分はアラブの商人達によって管理されていました。
アラブの商人達のみが最初から最後まで胡椒取引のあらゆる側面を知っていました。
インドの胡椒農家はヨーロッパ人のことを知りません、そしてヨーロッパ人はインドについてはただただ無知でした。
アラブの商人達は胡椒を非常に手頃な価格で購入し、非常に高い価格で販売することが出来ました。
そしてその高値を守るために何世紀にもわたって都合のいい物語を伝えてきたのです。
アラブの商人達の作った話です:胡椒は胡椒の木の森で栽培されています。
胡椒は豊富に採れます。でもそれは問題ではありません。問題は収穫にあります。
一面の胡椒の木はすべて毒蛇で守られています。
胡椒を収穫するために、農民は木に火をつけてへビを追い払わなければなりません。
火が白い胡椒の実を黒くするので胡椒は黒く皺のある外観をしているのです。
森を燃やすたびに木を植え直す必要があり、それは大変な労力と時間を必要とします。値段が高くなるのは仕方のない事なのです。
この神話は何百年も生き延びました。
実際には胡椒は単なる蔓性の植物で色は最初緑色で乾燥すると黒く縮み水に浸すと白くなります。
ポルトガル人の探検家が1498年にインドへの航路を見つけて初めて本当のことが知られるようになったのです。

胡椒 PEPPER 胡椒は「スパイスの王」として知られています。
胡椒はピペリン(piperine)による抗菌・防腐・防虫作用が知られています。
冷蔵技術が未発達であった時代において胡椒は料理に欠かすことのできないもので、食料を長期保存するためにも極めて珍重されていました。
最初の胡椒の木はインドで栽培されました。紀元前2000年まで遡って胡椒が輸出されていた記録があります。
それは古代からインド地方の主要な産品でした。
中国では西方から伝来した香辛料という意味で胡椒と呼ばれ日本には中国から伝来して生薬として用いられたり、山椒と並ぶ香辛料として多くの料理で利用されていました。
古代ギリシャ人に胡椒は既に知られていました。植物学者テオフラストウスは『植物誌』の中で胡椒について書いています。
胡椒は当時から貴重でした。
ローマ人は胡椒の大量消費者で、西暦40年頃には既にインド洋を渡って盛んな取引が行われていました。
ローマが滅びた後はアラブ人が胡椒貿易の支配的な勢力でした。
イスラムのネットワークは東アフリカから中国の南海岸までインド洋世界を網羅していました。
アラブの商人の手で持ち込まれた胡椒はヴェニスの商人達に買取られ高い値が付けられてヨーロッパに持ち込まれました。
1497年、王の命でキリスト教徒と胡椒を探しに出帆したバスコダガマがインド航路を発見し、15世紀末にはポルトガル人が胡椒貿易を支配する事になります。
しかしながらポルトガル人は16世紀になると徐々に権力を失い、17世紀にはオランダ人が支配的な勢力になりました。
そこへ大英帝国もやってきます。
スパイス戦争の始まりです。
やがて大英帝国が優勢になり、最終的にはその軍隊に支えられた英国東インド会社のような商社が貿易を支配する事になりました。

盛り塩清めの益 塩は日本の文化の中で浄化の象徴として使われてきました。
何気ない日常の行いにも塩は深く入り込んでいます。
料理屋の入り口に盛り塩が置かれているのをよく見かけます。
塩を三角錐型あるいは円錐型に盛り玄関先に置く風習ですが、主に縁起担ぎ、厄除け、魔除けの意味を持つと言われています。
良い客をたくさん招き、嫌な客には退散願う、その上我が店でお出しする料理は、穢れも破って清净ですよとの思いが込められています。
また盛り塩には西晋初代皇帝の司馬炎が起源という説もあります。
合計1万人もの宮女を収容した広大な後宮を、司馬炎は毎夜羊に引かせた車に乗って回るのが常でした。
そこで、宮女たちは自分のところに皇帝を来させようと、自室の前に竹の葉を挿し塩を盛り、羊が竹の葉を食べ塩をなめて立ち止まるようにしました。
この塩を盛る故事が起源とも言われています。上客の足を止め来店を促す、という事でしょうか。

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